top of page

料理の事始め

  最近、ドイツ駐在時代に朝食として食べていた「カイザーロール」や「ブリツェルロール」が無性に恋しくなった。インターネットで近所のパン屋でドイツパンを売っている店を探し出し買いに出かける。ついでに何種類かのハムとチーズも調達する。すると自動的に週末の朝食は、僕の当番となった。パンを水平に半分に切り、軽くトーストをしてからバターを落とす。その上にハムとチーズを挟むだけのシンプルな物なのだがとても美味しい。あとはサラダを準備して、コーヒーか紅茶を入れてお役目が終わる。

  しかし、日本特有の湿気の多さのためか、どうしてもドイツで食べた時の味と同等にはならない。もう一度、ヒルシャイドにあるクラウスに行って食べたいものだ。   そして、「今日の夕食は何にする?」との僕の問いに妻が答える。「タイ風スープカレー」と即答する。そうと決まれば、朝から必要な食材リストを妻に渡し、僕はキッチンへ立つことになる。

まずは、ベースとなるトムヤムクンスープを準備する。次にセロリひと束をミキサーにかけて青汁を造る。これにココナツミルクを加えて、もう一度ミキサーにかける。青臭い不味そうな臭いが立ち込める。でも、こいつがカレーの味に深みもたらす。こいつを寸胴鍋に入れて煮込む。ついでに缶詰の「ホールトマト」並びに「トウモロコシ」なども投入。 次に玉ねぎを5~6個ほどみじん切りして、フライパンで飴色になるまでよく炒める。コンソメと胡椒を少々加え、最後にひき肉200gも加えてさらに炒める。これも煮立ったスープの中に投入する。その次に人参を三本ほど乱切りにして焦げ目がつくまで炒めて鍋に投入。さらには、レンコンを輪切りにしてフライパンで炒め、こいつも鍋に投入する。通常はジャガイモだろうが甘くなるので我が家では省略する。

  最後の具材は、たっぷりのシメジやエリンギだ。フライパンで炒めるとキュウキュウと音が出始める。いい香りがする。このように僕は必ず具材を別のフライパンで炒める。カレーの味を調えるのは、各種香辛料。「ターメリック」「オールスパイス」「クミン」「ガラムマサラ」「コリアンダー」などを使うのだが順番と量は味見しながら適当にする。最後にどっさり「チリパウダー」を加える。妻が辛い物が好きなのでどんどん過激になる。「チリパウダー」は普通の容器では小さすぎるので「袋買い」。さてさて、今宵の味は如何でしょうか?

  他にも「野菜餃子」「パラパラ玄米チャーハン」、そして「キムチ鍋」「おでん」などが僕が担当するレギュラー・メュー。病気が悪化してから始まった「タンパク質摂取制限」のせいでレパートリーは減り、すっかり野菜が主力の料理しか造らなくなってしまった。それでも食いしん坊の私はテレビで特に見る番組が無いときなどは「料理番組」を見る。食べられない食材でも旨そうだなと味を想像してみる。「半熟卵の親子丼」「カツ丼」「ラーメン」とか食してみたい。命がけで食べてみるのも良いかもと時々思う。  そもそも何故、僕が料理が出来るようになったのか?僕が台所(キッチン)に立ち始めたのは小学校3年生の三学期のことだった。 

 お正月に母親が風邪をこじらせひどく体調を崩した。肺炎になりかけて3か月間も寝たきりとなっていた。9歳の僕は、母親の指示で学校から帰るとランドセルを置いて、買い物かごを下げて近所の八百屋、肉屋、魚屋、乾物屋へと買い出しに廻る。当時は、町内にスパーマーケットなどと言う便利な店は影も形も無い。

 買い物を済ませて帰宅すると、まず米とぎをする。そして、ガスレンジ台に鋳鉄で出来た分厚くて重い専用の釜でご飯を炊く。まずは釜の蓋がカタカタと音をたて始めるまで強火で炊く。この音がしなくなったら弱火にして2~3分蒸し、最後数十秒は再び強火にして「おこげ」を作る。これは、電気炊飯器などなかった時代の話。今の若い人はとても出来ない芸当だろう。それから、鰹節で出汁をとって味噌汁を作る。最後におかず一品造る。勤めに行っている父親の分と、まだなんの役に立たない妹の分も用意する。そんな生活を三カ月も続ければ、小学生でも自然と料理も覚える。包丁の使い方、炒める前の湯通しなど、料理の基本は、全てこの時に覚えた。お蔭さまで小学校5年生から始まった「家庭科」はいつも成績優秀だった。

Featured Posts
Recent Posts
Archives
Follow Us
  • Facebook Classic
  • Twitter Classic
  • Google Classic
bottom of page