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父親の肖像

  • #000005
  • 2015年6月26日
  • 読了時間: 3分

父親が自分に与えてくれたもの。

それは、「世の中の生き方」だったように思う。

父「誠」は、昭和7年(1932年)岩手県盛岡市で生まれた。

旧姓を「戸澤」と言い、代々、宮大工だったと聞いている。

だが家庭環境は、非常に複雑だったようだ。

何故なら4人兄弟の末っ子であったが、父だけが後妻の子供だったからだ。

勉強は良く出来たらしく、成績優秀だったようだ。

但し、小学校時代の昼休みは、ひとりで黙々と鉄棒にぶら下がる毎日。

食べるものが無く、空腹感を誤魔化す生活の工夫だ。

太平洋戦争が終わった年、すなわち中学2年生になるとき父親が亡くなり、

その直後から過酷な労働を強いられる。

晩年になっても、その時の様子を多くは語らなかった。

本人は、小説家を志望していたにも係らず、「盛岡工業高校」の「建築科」に進学。

その当時の父は、一日も早くこの実家から離れることだけを考えていたそうだ。

卒業後、念願かなって東京の建築会社に就職。

東京でのひとり暮らしが始まる。

仕事は、建築現場の現場監督だったらしいが、父の性分には会わず2年で離職。

その間、貯めた資金を元手に「国学院大学」の「文学部」に入学する。

むろん、学費は自分で稼ぎながらの学生生活だったようだ。

そんな中、友人と島根県に旅行をして母親と出会う。

いきさつは詳しく知らないが、大学を卒業すると同時に養子縁組して横浜で所帯を持つ。

しかし、当時の景気はドン底で定職も無かったとか。。。

そこに私が生まれる。

六畳一間のアパートに裸電球がひとつに唯一の家電製品は「ラジオ」だ。

プロ野球中継に耳を傾けている姿が記憶に残る。

物心がつくころになると、父は小さな出版社に勤めるサラリーマンだった。

毎朝、アパート前にあるチンチン電車の停留場に見送りに行った。

「16番」の市電に乗って出勤していた記憶がある。

小学校3年生くらいのころのある夜、寝つけない日があった。

父が帰宅すると「会社がつぶれた」と母親に告げる声を聞く。

「明日からは、おやつは無いな」とのんきな心配をした。

いつのころからか、父親の職業欄に「著述業」と書くようになった。

フリーライラ―になったのである。

小学校5年に宿題を持って御殿場の民宿に泊まる。

「富士スピードウェイ」で「日本グランプリ」の取材だったように記憶する。

その年の終わり、すなわち1970年は大阪万国博覧会が始まる。

詳細は判らないが父親は、その時、自動車館の要職の就き、単身で大阪へ乗り込む。

春休みになると、一人で大阪、千里ニュータウンの宿泊所に泊まる。

生まれて初めて乗る「新幹線」に大興奮したものだ。

その後、貧乏な我が家のハズだったのだが、何故か私立中学を受験する。

「月刊ドライバーの原稿料がお前の一か月分の授業料だ」と言っていた。

今でいうところの「自動車評論家」の走りとなったのだ。

月に10本以上のレギュラー執筆が始まり、取材で日本中を飛び回る。

父親が家にいない日が多くなった。まるで母子家庭のようだった。

大学生になって運転免許を取ると、レンタカーで親父の取材に同行することがあった。

少しずつ父親の仕事を理解し始める。

一緒にお酒も飲み始めるのもこのころだ。

やがて、何冊かの単行本を出版することになる。

代表作が「仁義なき自動車戦争」

因みに菅原文太さんが亡くなった時、この本のタイトルを思い出した。

今振り返ると、このころが父親の全盛期だったようだ。

生涯通じて、万年筆と原稿用紙だけで家族を養った人だった。

自分の記憶している父親の姿は、とにかく楽しそうに働いている姿だけだ。

「お金は無いが、知り合いの数は誰にも負けない」

「俺の人生は最高におもしろい。いつ死んでも良い」

50代のころ酔っぱらうとよく言っていたセリフが今も忘れられない。

「どんな逆境でも楽しいことを見つける」

そんなことを教わった気がするのだ。

 
 
 
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