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父親の肖像


父親が自分に与えてくれたもの。

それは、「世の中の生き方」だったように思う。

父「誠」は、昭和7年(1932年)岩手県盛岡市で生まれた。

旧姓を「戸澤」と言い、代々、宮大工だったと聞いている。

だが家庭環境は、非常に複雑だったようだ。

何故なら4人兄弟の末っ子であったが、父だけが後妻の子供だったからだ。

勉強は良く出来たらしく、成績優秀だったようだ。

但し、小学校時代の昼休みは、ひとりで黙々と鉄棒にぶら下がる毎日。

食べるものが無く、空腹感を誤魔化す生活の工夫だ。

太平洋戦争が終わった年、すなわち中学2年生になるとき父親が亡くなり、

その直後から過酷な労働を強いられる。

晩年になっても、その時の様子を多くは語らなかった。

本人は、小説家を志望していたにも係らず、「盛岡工業高校」の「建築科」に進学。

その当時の父は、一日も早くこの実家から離れることだけを考えていたそうだ。

卒業後、念願かなって東京の建築会社に就職。

東京でのひとり暮らしが始まる。

仕事は、建築現場の現場監督だったらしいが、父の性分には会わず2年で離職。

その間、貯めた資金を元手に「国学院大学」の「文学部」に入学する。

むろん、学費は自分で稼ぎながらの学生生活だったようだ。

そんな中、友人と島根県に旅行をして母親と出会う。

いきさつは詳しく知らないが、大学を卒業すると同時に養子縁組して横浜で所帯を持つ。

しかし、当時の景気はドン底で定職も無かったとか。。。

そこに私が生まれる。

六畳一間のアパートに裸電球がひとつに唯一の家電製品は「ラジオ」だ。

プロ野球中継に耳を傾けている姿が記憶に残る。

物心がつくころになると、父は小さな出版社に勤めるサラリーマンだった。

毎朝、アパート前にあるチンチン電車の停留場に見送りに行った。

「16番」の市電に乗って出勤していた記憶がある。

小学校3年生くらいのころのある夜、寝つけない日があった。

父が帰宅すると「会社がつぶれた」と母親に告げる声を聞く。

「明日からは、おやつは無いな」とのんきな心配をした。

いつのころからか、父親の職業欄に「著述業」と書くようになった。

フリーライラ―になったのである。

小学校5年に宿題を持って御殿場の民宿に泊まる。

「富士スピードウェイ」で「日本グランプリ」の取材だったように記憶する。

その年の終わり、すなわち1970年は大阪万国博覧会が始まる。

詳細は判らないが父親は、その時、自動車館の要職の就き、単身で大阪へ乗り込む。

春休みになると、一人で大阪、千里ニュータウンの宿泊所に泊まる。

生まれて初めて乗る「新幹線」に大興奮したものだ。

その後、貧乏な我が家のハズだったのだが、何故か私立中学を受験する。

「月刊ドライバーの原稿料がお前の一か月分の授業料だ」と言っていた。

今でいうところの「自動車評論家」の走りとなったのだ。

月に10本以上のレギュラー執筆が始まり、取材で日本中を飛び回る。

父親が家にいない日が多くなった。まるで母子家庭のようだった。

大学生になって運転免許を取ると、レンタカーで親父の取材に同行することがあった。

少しずつ父親の仕事を理解し始める。

一緒にお酒も飲み始めるのもこのころだ。

やがて、何冊かの単行本を出版することになる。

代表作が「仁義なき自動車戦争」

因みに菅原文太さんが亡くなった時、この本のタイトルを思い出した。

今振り返ると、このころが父親の全盛期だったようだ。

生涯通じて、万年筆と原稿用紙だけで家族を養った人だった。

自分の記憶している父親の姿は、とにかく楽しそうに働いている姿だけだ。

「お金は無いが、知り合いの数は誰にも負けない」

「俺の人生は最高におもしろい。いつ死んでも良い」

50代のころ酔っぱらうとよく言っていたセリフが今も忘れられない。

「どんな逆境でも楽しいことを見つける」

そんなことを教わった気がするのだ。

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