最古の写真の話
小学校のころから毎年、新学期がとても優つだった。
初めての出席を取るたびに名前の読み方を説明する必要があったからだ。
先生が最初に躓くのが自分のところなのだ。
「何と読むの?」と必ず聞かれる。
「おごし」と答えると「へー珍しい名前だねぇ」と必ず言われた。
この風景は、大学を卒業するまで繰り返される春の恒例行事だ。
小学校低学年の頃は「越」と言う漢字が、とても書きづらくて大嫌いだった。
そんな珍しい名前には、いろいろな歴史が隠されている。
これは、今から35年前に亡くなった祖父から度々聞いていた話だ・・・
「生越」と書いて「おごし」と読んだり「おごせ」とも読むのだが、
この名前の発祥の地は「埼玉県越生市」らしいのだ。
鎌倉時代の末期、二人の天皇がいたと言われる「南北朝時代」に
敗れた側(北朝)の一族だったらしい。
官軍の追手から逃れるため、名前を「越生」から「生越」あるいは「小塩」に変えて
新潟方面へ逃走、さらには船に乗って日本海を渡り、西国島根の海岸へ流れ着いたのだそうだ。
その証拠に今でも「生越」という名前は、島根県北西部のある地域に行くと多々見られる。
さて、これがが真実かどうか捨て置き、この一枚の写真をご覧ください。
これは、我が家に現存する一番古い写真で、1907年(明治40年)に撮影されたもの。
日露戦争講和条約が締結された翌年であり、 アメリカでは「T型フォード」が大量生産を開始、庶民が自動車を購入し始めた年です。
中央に立っている幼児が、祖父「修」が3歳の時のもの。
曽祖父、曾祖母及び使用人も写っている。
祖父は島根県松江市の武家屋敷の生まれであり、
親戚からは「母里(もり)の坊ちゃん」と呼ばれていたのを覚えている。
これには、理由がある。
生みの母親は「若槻禮次郞」(第25・28代内閣総理大臣)の娘だったらしいのだ。
もし、これが真実ならば、自分は元総理大臣の「玄孫(やしゃご)」なのです。
この様子では、その当時は「金持ち」だったようですが、いまや、ただの貧乏人(笑)