ユトリロと写真
- #00008
- 2015年11月15日
- 読了時間: 2分

いまから遡ること40年前・・・ 高校2年生になると、芸術系の科目が選択科目となった。
リコーダーもハモニカを奏でることもままならず、音痴だった僕にとって、
一番の朗報は「音楽」から解放されられることだった。
「音楽」「書道」「美術」のなかから消去法的に選んだのが「美術」だった。
美術の授業担当していたのは「秦克彦」先生だった。
今でも覚えているのが「モーリス・ユトリロ」の話だ。
モーリス・ユトリロは1883年、モンマルトル、ポトー通りで生まれた。
いつも酔っぱらっており、アルコール依存症…いわゆる「アル中」の芸術家。
生涯を通じて、パリの裏通りの絵を描き続ける。
絵の具だけでは、実際の色合いが再現できないことにいら立ったユトリロは、
建物の壁をパレットで削り、地面の土を採取して絵の具に混ぜて絵を描いたのだ。・
この話を聴いて、影響されやすい僕は、すぐにそれを真似してみた。
初めての油絵の作品は、現在でも残っている短大の建物を描いたものである。
その後、秦先生は「シュールレアリズム」について話された。
特にジョルジョ・デ・キリコの絵画は、僕の想像力を刺激した。
その後、遥かに続く道と青空の中に、買ったばかりの革靴を無造作に描いてみる。
まったく脈絡がないものだが、描きながらドキドキした。
出来上がった絵を提出すると「秦先生」から言われた。
「これちょっと貸してよ。神奈川の高校の美術展覧会に出させてくれ。」と頼まれる。
かくして、僕の作品は、神奈川県民ホールで沢山の人の眼にとまることになる。
展示が始まって、会場に行ってみると、僕の作品には「遠近のなかの幻想」なるタイトルが与えられていた。
ちょっと誇らしかった。
これが、自分の作品をギャラリーで発表する原体験となる。
そんなある日、ふっと見た朝日新聞の朝刊に掲載してある写真を見て驚いた。
自分の作品に酷似した作品が何かの賞を受賞していたからだ。 直感的に「盗作」されたと感じた。
写真と油絵との差はあるが、自分のアイデアを盗まれたと思った。
まだ、子供だったのか、それ以上のアクションは取らなかったのだ。
その後、その作品は、長年、祖父の家の居間に飾られていた。
やがて、祖父が亡くなり、親戚も亡くなると、その実家を処分することになり、
その作品が、再び自分の手元に戻った。
大学に進学すると油絵からは離れるが
「サラリーマン引退したら、また油絵を始めてみもいいかな・・・」そう思った。
それが、現在の写真に繋がっているのかもしれない。