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ユトリロと写真


いまから遡ること40年前・・・ 高校2年生になると、芸術系の科目が選択科目となった。

リコーダーもハモニカを奏でることもままならず、音痴だった僕にとって、

一番の朗報は「音楽」から解放されられることだった。

「音楽」「書道」「美術」のなかから消去法的に選んだのが「美術」だった。

美術の授業担当していたのは「秦克彦」先生だった。

今でも覚えているのが「モーリス・ユトリロ」の話だ。

モーリス・ユトリロは1883年、モンマルトル、ポトー通りで生まれた。

いつも酔っぱらっており、アルコール依存症…いわゆる「アル中」の芸術家。

生涯を通じて、パリの裏通りの絵を描き続ける。

絵の具だけでは、実際の色合いが再現できないことにいら立ったユトリロは、

建物の壁をパレットで削り、地面の土を採取して絵の具に混ぜて絵を描いたのだ。・

この話を聴いて、影響されやすい僕は、すぐにそれを真似してみた。

初めての油絵の作品は、現在でも残っている短大の建物を描いたものである。

その後、秦先生は「シュールレアリズム」について話された。

特にジョルジョ・デ・キリコの絵画は、僕の想像力を刺激した。

その後、遥かに続く道と青空の中に、買ったばかりの革靴を無造作に描いてみる。

まったく脈絡がないものだが、描きながらドキドキした。

出来上がった絵を提出すると「秦先生」から言われた。

「これちょっと貸してよ。神奈川の高校の美術展覧会に出させてくれ。」と頼まれる。

かくして、僕の作品は、神奈川県民ホールで沢山の人の眼にとまることになる。

展示が始まって、会場に行ってみると、僕の作品には「遠近のなかの幻想」なるタイトルが与えられていた。

ちょっと誇らしかった。

これが、自分の作品をギャラリーで発表する原体験となる。

そんなある日、ふっと見た朝日新聞の朝刊に掲載してある写真を見て驚いた。

自分の作品に酷似した作品が何かの賞を受賞していたからだ。 直感的に「盗作」されたと感じた。

写真と油絵との差はあるが、自分のアイデアを盗まれたと思った。

まだ、子供だったのか、それ以上のアクションは取らなかったのだ。

その後、その作品は、長年、祖父の家の居間に飾られていた。

やがて、祖父が亡くなり、親戚も亡くなると、その実家を処分することになり、

その作品が、再び自分の手元に戻った。

大学に進学すると油絵からは離れるが

「サラリーマン引退したら、また油絵を始めてみもいいかな・・・」そう思った。

それが、現在の写真に繋がっているのかもしれない。

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